外観 客室例
風呂 お食事例

C-2
r




その他の観光情報

天麟院

天麟院は、政宗公の正室・愛姫との間に生まれたただ一人の娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提を弔った寺で、 陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられています。五郎八姫は、徳川家康の六男で鬼子といわれた松平忠輝のもとへ政略結婚として嫁いだ。 しかし、忠輝も父・家康の政略方法などに反発を強め、大阪夏の陣には参戦しなかった。そのため、高田75万石を召し上げられる。 五郎八姫は離婚して仙台へ戻り仏門へ入ったが、政宗公は不幸な娘に同情して娘の信仰生活を全面的にバックアップしたといわれています。 なお、松島町富山の大仰寺には、出家時の五郎八姫の遺髪、仏舎利があり、門外不出の寺宝となっています。




五大堂

松島のシンボル・五大堂は、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征のおり、毘沙門堂を建立したのが最初。 後に、慈覚大師円仁が円福禅寺(瑞巌寺の前身)を開いた際、「大聖不動明王」を中央に、「東方降三世」、「西方大威徳」、 「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれています。現在の建物は、 伊達政宗公が慶長9年(1604年)に再建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したものです。




観瀾亭

「観瀾」とは、さざ波を観るという意味です。観瀾亭は、もともと豊臣秀吉の伏見桃山城にあった茶室を政宗公がもらい受けて江戸の藩邸に移してあったものを二代目忠宗公が納涼観月の亭にと、 海路松島へ一木一石変えずに移築したものです。観瀾亭と名付けたのは五代吉村です。 素木造り平屋建てで屋根は寄せ棟造りこけら葺き、三方が縁側で部屋は京間18畳2室。 床の間の張付絵や襖絵には、金地に槍や草花を描いた極彩絵があり、狩野派系統の絵師の筆といわれております。 納涼観月の亭として月見御殿ともいわれ、町では秋に「月見の会」を行い、一般開放も行っております。 公式記録では、藩主や姫君、側室などの松島遊覧、幕府巡見使などの諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設として利用されていたようです。 (県重要文化財)





〒981-0213 宮城県宮城郡松島町松島字東浜5-3