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武家屋敷 島原城の西に続く一帯を、鉄砲町と呼びます。鉄砲町は島原城の築城とともに形成され、鉄砲町の名は鉄砲組(徒士)の住居地帯であったことと、造成当時隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたので、その名がつけられたと言われています。 7つの町筋は碁盤の目のようにできており、ここには扶持(ふち)取り70石以下の徒士(かち)屋敷が690戸ありました。 町筋の中央に流れる清水は、北西の「熊野神社」を水源とし、飲料水として使われ、水奉行を置き、厳重に管理されていました。 現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで、山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。また、武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」が楽しめます。 |
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島原城 島原城は元和4年(1618年)から松倉豊後守重政が、当時森岳と呼ばれた高地を城のかたちに切とって石垣を積み、堀を掘って7年の歳月を費やして築いたものであります。総塗りごめ、白亜五層天守閣を中核として大小50の櫓を要所に配し、これを囲む矢挟間塀の長さは総延長2233メートルという規模の大きさで安土桃山時代の築城様式をとりいれた壮麗なものでありました。 以来約250年間4氏18代の居城として歴史上からも数々の歴史を生んできました。 しかし、明治維新により廃城が決定、明治7年解体され、以来90年、天守閣無き城跡だけがその面影をとどめました。 昭和35年に「西の櫓」を復元、次いで昭和39年「天守閣」、48年「巽の櫓」、55年「丑寅の櫓」などが矢挟間・鉄砲狭間を備えた長塀とともに復元されました。 現在は、天守閣がキリシタン資料並びに藩政時代の郷土資料・民俗資料などを展示。巽の櫓は郷土が生んだ彫塑界の最高峰故北村西望先生の作品を紹介する西望記念館となっています。 平成8年5月には、雲仙普賢岳の噴火活動の経緯などを映像等で紹介する「観光復興記念館」がオープンいたしました。 |
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青い理髪館 森岳商店街は島原城築城時に新しく開かれた城下町のひとつで、当時はここを島原街道が通り、遠く江戸や長崎に結びついていました。人と物の往来が多く、旅籠や酒造場、木綿問屋等が集まっていました。 大正2年(1913年)に島原鉄道が開通すると島原の北の玄関口として更に賑わいました。青い理髪館は大正時代、全国的な洋館ブームが起き、その波が島原にも押し寄せて建築されたもので、つい数年前まで実際に床屋さんが営業していたものであります。 現在、リニューアルして「青い理髪館」として甦り、「森岳まちづくりの会」が運営しています。1階は当時の床屋さんの道具をそのまま残し、大正ロマンの香りがする洋館です。 |
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